トップページ > 県政情報・統計 > 県概要 > 組織案内 > 企画財政部 > 企画財政部の地域機関 > 北部地域振興センター本庄事務所 > 地域の見どころ・情報 > NHK大河ドラマ主人公 渋沢栄一の活躍を今に伝える県境の魅力めぐりその7
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掲載日:2023年1月4日
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埼玉県の最北端・本庄児玉地域は、通勤・通学、通院、買い物など日常的に群馬県との県境を行き来し、県北にあって熊谷市や深谷市などとは異なる生活圏を形成しています。
この県境にまたがる地域は、令和3年のNHK大河ドラマの主人公渋沢栄一や、2021年に没後200周年を迎える盲目の国学者・塙保己一をはじめ各分野で活躍する多くの先人たちを輩出しており、我が国の成長を支えた産業遺産も数多く点在する地域です。
この特集は、東京国際大学非常勤講師・NPO川越きもの散歩代表の藤井美登利氏に取材、執筆をお願いし、地域の皆様にご登場頂きながら進めてまいります。
当時の時代背景や、渋沢栄一と絹産業にまつわるお話など、写真やエピソードを挿み分かりやすくお伝えし、こちらにお出かけの際に参考となるよう周辺施設のご案内も併せてしていきます。
藤井美登利氏
東京国際大学非常勤講師・NPO川越きもの散歩代表 埼玉県共助仕掛人
https://kawagoe-kimono.jimdofree.com/
https://silk-story.jimdofree.com/(絹のものがたり)
さいたま絹文化研究会(秩父神社・高麗神社・川越氷川神社)会報誌発行。埼玉県内の染織工房や絹文化とまちづくりを紹介する単行本「埼玉きもの散歩」をさきたま出版会より上梓。
今回は渋沢栄一ゆかりの旧家・東諸井家(本庄市)をご紹介します。中山道本庄宿の中心地、仲町には東諸井、南諸井、北諸井の三家があり江戸時代から名主や豪商として活躍する一族でした。
なかでも東諸井家は、明治期に繭市場の開設、郵便事業や煉瓦、鉄道、セメントと日本の近代化に大きく貢献します。末裔には日経連の初代会長を務めた諸井貫一をはじめ、経済界などで活躍する人物を多数輩出しています。また、埼玉の若者の育英支援団体「埼玉誘掖会」(さいたまゆうえきかい)の創立にも渋沢栄一と共に尽力しています。明治時代の郵便局として使われた建物が残っていると聞き、訪問しました。
諸井家住宅
旧本庄仲町郵便局
「近代郵便制度の父」前島密(1円切手)
明治2年、渋沢栄一(29歳)は大隈重信(31歳)に請われ、明治政府に仕官します。上司は伊藤博文(29歳)や井上馨(33歳)でした。同じ部署にかつて静岡藩で同僚だった前島密(34歳)を呼び寄せます。2人は民部大蔵省の改正掛に勤務します。ここはシンクタンクのような部署で、渋沢と前島は廃藩置県、郵便制度、鉄道、租税、度量など新制度を次々と成立させていきます。彼らの上司も含めて、明治政府の幹部たちの若さに驚きます。
明治4年(1871)に、前島密が担当した日本の近代郵便制度がスタートします。前島はなるべくお金を掛けずに、全国へ郵便ネットワークを作るため、知恵を絞ります。地元の名士(名主や資産家)に土地と建物の一部を無償提供してもらい、その代わりに彼らを「郵便取扱役」に任命して準官吏の身分を与え、「公務」である郵便業務を請け負わせるという施策をとったのです。
東諸井家10代目の泉衛(せんえい)は、駅逓頭(郵政大臣)前島密と尾高惇忠(栄一の従兄で当時の富岡製糸場長。泉衛の父に本庄に繭市場の開設を相談し、交流があった)のすすめで、明治5年(1872)に自宅に本庄郵便取扱所を開設し、初代本庄郵便局長(当時は郵便取扱役)に就任しました。諸井家には前島密による指令書が残されています。
四等郵便役所置、右役所詰申付二付辞令
(上)東諸井家に残る前島密の郵便役所開設指令書(埼玉県立文書館収蔵)
郵便役所の建築が終わるまでは自宅を仮役所として使用するようにと記されています。
フランチャイズ制度で全国展開を目指す!という勢いで明治4年の180局から4年後には1500局、その翌年には3200局に増えました。この結果、地域の名士の屋敷を拠点とする郵便局(郵便取扱所)が短期間のうちに全国津々浦々にまで広がり、明治9年には3245もの郵便局ができたのでした。前島は「地方の紳士諸君は、通信の必要ということを良く理解して利益も少ない郵便を扱い、政府の誠意と公衆の便益のために、皆奮ってその任に当たられたのは深く感謝した」と述べています。
本庄まちNETの戸谷正夫さん(建築家)に案内して頂きました。
戸谷正夫さん 本庄まちNET代表
建築事務所を主宰。本庄市文化財保護審議会委員。蔵を保存・再生・活用した「本庄・宮本蔵の街」や、多くの蔵、町家などの修復、再生設計などを手掛けています。
本庄まちNETとは:
2007年に結成された市民によるまちづくりグループ。現在6つのプロジェクトチームを中心に活動しています。江戸時代に本庄で発明された「陸船車」を復元した門弥PJは、今年のオリンピックの聖火リレーに陸船車が使用され一躍脚光を浴びました。
諸井泉衛と家族たち 泉衛の妻は渋沢栄一のいとこでした。
明治7年に撮影された諸井泉衛の進取の気風を伝える写真です。泉衛はちょんまげ頭にフロックコート、まだ珍しかったガラスの杯を手にしています。乳飲み子を抱く隣の女性は妻の佐久。渋沢宗助の次女で渋沢栄一のいとこです。 泉衛は本庄で最初にちょんまげを切り落としたと伝わる人物です。
「この建物は東諸井家10代目諸井泉衛(写真中央)が建てたものです(明治10年上棟)。泉衛は大工を横浜の外国人居留地にわざわざ連れていき、この建物を作らせたと伝わっています。木造2階建、切妻屋根瓦葺き、外壁塗壁造りです。
本庄では明治16年にこの建物の近くに本庄警察署が出来ました。(前回紹介)これが本庄での擬洋風建築物の初めての出現でした。その数年前に出来たこの諸井邸は、今までの日本の町家造りを基本とし、幾つかの場面で泉衛の希望、そして大工さんなどの施工可能な範囲で洋風意匠が採り入れられています。それなので、日大建築学科の山口廣先生が「洋風町家」と命名していました。」と戸谷さん。
壁から天井まで黒漆喰で塗り固められています。
「特に注目すべき洋風意匠は、外部では2階のバルコニーの手摺とコロニアル風格子天井、そして4色ガラスを嵌め込んだ欄間の窓です(松本市にある、旧開智学校とそっくりです)。
また内部では、次の間、奥座敷、茶の間など、壁天井を黒漆喰で仕上、特に次の間の天井は緩やかなボールト状にして欄間の色ガラス窓の形に呼応させています。さらに部屋の天井には円形花座飾り(桜と楓のよう)が漆喰のコテ細工で仕上げられ、まさに洋室天井の写しですね。」
「天井には円形花座飾り(桜と楓のよう)が漆喰のコテ細工で仕上げられています。明治10年頃だと、ランプが下げられていたのでしょうか。」
「松本市の旧開智学校と同じ4色ガラスがはめられています。左奥には埋め込みの金庫もありました。郵便局として使われていた部屋と思われます。」
「実業家でもあり書家の大家でもあった諸井春畦(しゅんけい)(泉衛の3男)の額です。諸井家は外交官、芸術家など多才な人材を輩出しています。」
「仏間ですが、ここも黒漆喰で塗り固められています。キリスト教のニッチ(*)にも見て取れます。」
(*)建築用語でニッチとは、住宅の壁面にくぼみを作りスペースを設けることをいいます。
「2階は蚕室として使われていたようです。屋根の小屋組が単純ではあるが洋小屋組なのには驚きます。明治初期、地方の大工さん左官屋さんが、見慣れない西洋の意匠を立派に施工させた技量には感服ですね。また明治5年に東諸井家が本庄郵便取扱所を拝命されたことにより、正式な郵便局舎が出来るまでの間、この住宅の一部が郵便局舎としても使われることになり、建物の一部を局舎に対応した作りにしています(玄関戸に鉄格子を入れたり、金庫を壁内に入れ込む仕様)。ただ部屋を漆喰仕上げにしたのは防火目的かは不明です。」と戸谷さん。
二階にもドイツ製の色ガラスが当時のまま煌いていいました。ベランダにでてみると・・・
「このバルコニーの手すりとコロニアル風格子天井は、この建物の特徴です」という戸谷さん。本庄の大工さんが横浜の洋館を参考にして施主の泉衛とともに創り上げたのでしょう。明治10年という早い時代に驚きます。伝統的な和風住宅を基本にして、洋風の手法があちらこちらに。明治の洋風建築が地方に伝播した歴史的証人でもあるこの諸井家住宅。日本の近代化を支えた諸井家の人々を育くみ、更に、郵便事業の発展も伝えるものとして高く評価され、埼玉県指定文化財にもなっています。
諸井恒平
諸井恒平は諸井泉衛の次男として文久2年(1862)に生まれました。母の佐久は渋沢栄一のいとこにあたります。15歳の時に父を亡くし、弟たちも幼かったため若くして働きはじめ、16歳で本庄生糸改所頭取になります。25歳の時に栄一の薦めで深谷の日本煉瓦製造会社へ入社し、同社の発展に尽力、後に秩父鉄道や秩父セメント(武甲山の石灰石を原料)の経営でも活躍します。栄一が提唱する「道徳経済」を自身が経営する会社でも実践し、実業家として成功した恒平ですが埼玉の青年の育英事業にも熱心でした。小学校までしか行けなかった恒平は、教育への思いが強かったのでしょう。渋沢栄一、本多清六博士(久喜出身・日比谷公園などを設計)達と埼玉学生誘掖会を明治35年(1902)年に創設します。東京で勉学に励む埼玉県出身学生のための寄宿舎を作り、奨学金制度などを立ち上げたのです。最盛期には100人の学生たちが生活を共にし、会頭の役職についた栄一は、多忙な中でもここで同郷の学生たちとの交流を楽しみにしていました。
寄宿舎は平成13年(2001)に閉鎖されましたが、ここから2千人の学生が巣立ちました。令和4年(2022)には創立120年を迎え、現在も埼玉出身の若者を対象に奨学金事業が行われています。*誘掖(ゆうえき)とは導き助けるという意味
埼玉学生誘掖会の寄宿舎(砂土原寮)で学生生活を送り寮長を歴任された田中庸三さんにお話しを伺いました。
田中庸三さん
埼玉学生誘掖会舎友会副代表幹事・(一財)埼玉県人会評議員・澁澤栄一記念財団竜門社会員・埼玉県観光特使 ・埼玉県中国ビジネスアドバイザー・群馬県県人会連合会副会長
「私は熊谷の妻沼出身です。利根川の飛び地で高校は最寄りの群馬県太田に通いました。昭和43年から3年間、郷里の先人の貴重な浄財で設立された埼玉学生誘掖会の寄宿舎(砂土原寮)に大変お世話になりながら大学に通いました。住み込みの寮母さん家族による美味しい食事が提供され、親元を離れた学生達は家庭的な第二の故郷を満喫し青春時代を過ごすことができ、感謝に耐えません。寮は渋澤栄一翁所縁の日仏会館(日仏学院)前の急坂である逢坂を登り切った所にあり、かつては広大な敷地を擁していましたが、我々の時代は定員30名規模となっていました。
近隣は名だたる大邸宅の多いお屋敷街で神楽坂も近く、下駄ばきで銭湯や飲みに出かけるなど熊谷出身の私には、夢の様な毎日でした。寮生は利根川沿線地域、秩父など県北・西部出身者が多かったですね。1年目は3人部屋、2年目からは個室になりました。当時は学生運動の激しい時期でしたが、各大学に在籍する寮生は団結し秩序ある自治運営を心掛けておりました。同じ釜の飯を食べた仲間は、卒寮後色々な分野に進み大活躍していますが、当時の仲間の絆は今でも貴重な無形の財産です。諸井恒平さんは本庄児玉地方で多くの寄付を募り、創立に大変尽力されたと聞いています。諸井さん所縁の地・建物で、埼玉学生誘掖会のお話しをすることができて、改めて明治の偉人・先輩たちの後進へ託した思いをより深く感じることができました。私も郷里への恩返し活動に励みたいと思っています。」
諸井家の玄関前にて。田中庸三さん(左)筆者(中央)埼玉県北部地域振興センター本庄事務所 伊藤所長(右)
埼玉学生誘掖会HP 埼玉学生誘掖会 (saitama-yueki.or.jp)
参考資料
にっぽん歴史街展示リーフレット「 諸井(三)家文書」 埼玉県立文書館
特別展2000「諸井家と近代化遺産」リーフレット 本庄市歴史民俗資料館
「近代遺跡調査報告書 商業・金融業」 文化庁
*取材にあたりましては本庄市教育委員会文化財保護課の御協力をいただきました。
(文責・NPO川越きもの散歩・さいたま絹文化研究会 藤井美登利)
*本文・画像の無断転載はご遠慮ください。
*諸井家住宅は埼玉県の指定文化財ですが、耐震調査のため現在公開していません。私有地なので立ち入りもご遠慮ください。
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