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掲載日:2022年3月25日

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NHK大河ドラマ主人公 渋沢栄一の活躍を今に伝える県境の魅力めぐりその5

 埼玉県の最北端・本庄児玉地域は、通勤・通学、通院、買い物など日常的に群馬県との県境を行き来し、県北にあって熊谷市や深谷市などとは異なる生活圏を形成しています。

この県境にまたがる地域は、令和3年のNHK大河ドラマの主人公渋沢栄一や、2021年に没後200周年を迎える盲目の国学者・塙保己一をはじめ各分野で活躍する多くの先人たちを輩出しており、我が国の成長を支えた産業遺産も数多く点在する地域です。

この特集は、東京国際大学非常勤講師・NPO川越きもの散歩代表の藤井美登利氏に取材、執筆をお願いし、地域の皆様にご登場頂きながら進めてまいります。

当時の時代背景や、渋沢栄一と絹産業にまつわるお話など、写真やエピソードを挿み分かりやすくお伝えし、こちらにお出かけの際に参考となるよう周辺施設のご案内も併せてしていきます。

fujiisan

藤井美登利氏

東京国際大学非常勤講師・NPO川越きもの散歩代表 埼玉県共助仕掛人

https://kawagoe-kimono.jimdofree.com/

https://silk-story.jimdofree.com/(絹のものがたり)

さいたま絹文化研究会(秩父神社・高麗神社・川越氷川神社)会報誌発行。埼玉県内の染織工房や絹文化とまちづくりを紹介する単行本「埼玉きもの散歩」をさきたま出版会より上梓。

栄一ロゴ青

その5 渋沢栄一の養蚕人脈 飯島曽野(その)
~宮中御養蚕へご奉仕した埼玉県の女性~(深谷市)

飯島本陣毎年5月になると、皇居での皇后陛下の御養蚕の様子が報道されますが、この御養蚕に渋沢栄一が深く関わっていたことをご存知でしょうか。

150年前の明治4年(1871)、明治天皇の后、美子皇后(後の昭憲皇太后)が「宮中において養蚕を始めたいが、その道の経験のあるものに聞くように」と要望されたことから、近代の宮中御養蚕プロジェクトが始まりました。当時明治政府の高官は武士出身者が多く、養蚕に精通した人物が大蔵省には渋沢栄一しかいなかったため、栄一が宮内省へ推挙されたのでした。

前年、栄一は富岡製糸場開設の主任となり多忙であったため、縁戚である島村(群馬県伊勢崎市)の蚕種家・田島武平に世話役を依頼しました。

そして島村の養蚕を熟知した17歳から48歳の4人の女性が選ばれたのです。

そのうちのひとりが深谷宿本陣の飯島元十郎の妻、曽野(その)でした。当時28歳で3歳の娘の子育て真っ最中。いったい、どんな経緯で深谷から宮中へ出仕したのでしょう。300年前に建てられた本陣の遺構をいまも護る、ご子孫の飯島のり子さんに、お話しを伺いました。


藤井さん「1700年代から本陣であった我が家の3つの誇りを、町会議員でもあった祖父が昔の新聞の取材で話しています。そのひとつは皇女和宮様がご休憩されたこと、2つ目は第1回の宮中ご養蚕に祖母・曽野がご奉仕したこと、3つ目は富岡製糸場視察の際に高貴な方がご休憩されたことです。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本陣 上段の間にて  筆者(藤井)

和宮草履

 

「これが皇女和宮様から賜った草履です。私が子供の頃は鼻緒がもっと紅色でしたが退色してしまったようです。京都から中山道を25日かけて、徳川将軍家に嫁ぐ花嫁行列は、総勢2万人50キロにも及んだそうです。その途中、深谷本陣だった我が家で休息をされました。」と飯島のり子さん。

 

曽野の生家は蚕種家・田島家

曽野の実家は深谷から約3キロの島村の、蚕種で財を成した田島家でした。曽野の兄は、当連載のその2「世界遺産・田島弥平イタリアへ蚕種の輸出へ」で紹介した田島弥平です。田島武平・弥平は親戚で、ともに渋沢栄一とは深いつながりがあります。慶応3年(1867)、栄一がフランス滞在時に開催されたパリ万博に、弥平は生糸を出品し銀賞を受賞。また、弥平と武平がイタリアへの蚕種の直輸出に踏み切ったのも、栄一のアドバイスによるものでした。

曽野はその田島一族、初代弥平の娘で、子供のころから家業の養蚕に慣れ親しんでいました。同行する3人も同じ島村の親しい女性たちです。宮中へのご奉仕は大変光栄なことと喜んだのも束の間。何と3日しか準備の時間がないという慌ただしさでした。3歳の娘を置いて約2ヶ月間のご奉仕に旅立つ曽野の胸のうちはいかばかりか。日誌には淡々と日々の記録が書き留められ、曽野の胸中は残念ながら記されていません。時間がないながらも、やはり宮中出仕は特別なことだったのでしょう。4人は新調した丸帯を締めて、利根川の島村河岸から小舟に乗り、中瀬河岸(その4で紹介)対岸の平塚河岸で大船に乗り換えて、お供の男性たちと東京へ向かいました。

日誌

日誌2

 

曽野が記した宮中御養蚕日誌。明治4年3月8日から5月15日までの様子が記され、蚕飼育は47日間でした。

ご養蚕所は宮中吹上御苑内にある御茶室が充てられました。当時22歳の若き美子皇后は、養蚕の専門書を夜更けまで読み、住まいの部屋近くにも蚕を持ち帰り飼育したといいます。曽野たち4人も交替で、皇后の住む大奥にも手伝いに行っています。

また、蚕を食べるネズミ除けのために三毛猫も飼われており、皇后が「良き猫」と言われ猫と遊ばれたことも記されています。

掛け軸と飯島さん

 

「ご養蚕奉仕中に蚕室の床の間に掛けていたお軸です。曽野の弟・田島謙三郎(霞山)が餞別に贈ったものです。これを見た宮中のお女中衆は、扇で口許をおおいながら笑いこぼれたそうです。描かれている蚕婦たちと、実際の曽野たちが良く似ていたからではないでしょうか」

と飯島のり子さん。

飯島さんと写真

 

第1回目の宮中ご養蚕は錦絵や新聞でも広く紹介されました。これも欧州で新聞社を見学してきた渋沢栄一の発案と言われています。この錦絵には中央に美子皇后、周りには4人の蚕婦が描かれて、飯島曽野も名前入りで描かれています。

「御養蚕が終了すると4人は宮中から御褒美として、三つ重御盃、煙草入、袂入(たもといれ)を拝領しています。明治10年に深谷の中山道で大火があり、飯島家も被害を受け、当時の拝領品はこの袂入だけが残っています。袂入とは文字通り、袂の中に入れて使う小物入れ。袂が風で翻るのを防ぐ目的もあったようです。」

明治4年浅草で撮影した写真

浅草写真

この写真は宮中での御養蚕が終わった後に、浅草の「九一写真館」で撮影したものです。明治天皇の御真影を初めて撮影した有名写真家・内田九一が開いた写真館です。

前列左が飯島曽野(28歳)。この写真では、4人それぞれご褒美の品をもち、曽野は袂入を手にしています。

後列右の男性は用心棒の田島弥九郎。元は江戸から流れて来た剣の達人で、田島家の家業である、蚕種を横浜へ運び代金を無事に持って帰る重要な役を担っていました。島村で剣術の道場も開いていました。斜に構えた風貌はまるで時代劇の剣豪のようです。

この日、写真を撮り終えた一行は浅草から船に乗り、山谷堀の料理屋八百善で食事をしています。八百善は幕府の命でペリー提督の饗応も担当した名店で、大名家や徳川将軍家代々の御成りも仰ぎ、江戸で最も成功した料理屋でした。筆者の住む川越ともつながりがあり、川越唐桟という織物の創始者、中島久平の姪が八百善の女将として嫁いでいます。曽野たちをもてなしたのは、この女将だったかもしれません。現在も鎌倉で営業されています。

また、曽野たちは滞在中に当時、話題になっていた外国人用の築地ホテルや、新島原遊郭の見物にも出かけています。今でいえば、セレブなマダムたちのグルメとテーマパークでの一日、プロのカメラマンによる撮影会付き『お江戸観光』といったところでしょうか。深谷で待つ可愛い3歳の娘のお土産の帯も購入し、帰路につきます。帰りは川の流れに逆らうためか、中山道を人力車を連ねて大宮、熊谷に一泊しながら帰りました。人力車は前年の明治3年に認可された新しい乗り物でした。

 

曽野たちがご奉仕した第1回宮中御養蚕の翌年の明治5年には、栄一が担当した官営富岡製糸場が開場します。初代場長は、曽野の兄、田島弥平とも蚕種で交流のあった栄一の従兄の尾高惇忠でした。美子皇后もその翌年には富岡製糸場を行啓(訪問)しています。

宮中御養蚕はその後も、明治、大正、昭和、平成、令和と皇后陛下に受け継がれ、宮中の繭を使った生糸や反物は、現在も正倉院御物の復元や、外国の賓客への贈り物として使われています。

かつて日本の近代化を支えた蚕糸業ですが、現在埼玉県に養蚕農家は17軒、全国でも228軒に激減しています。桑畑や養蚕の風景は私達の暮らしから消えていきましたが、宮中御養蚕に栄一が関わり、埼玉や群馬の女性たちが大きな役割を果たしていたことは、次世代にも伝えていきたいものです。

(文責 NPO川越きもの散歩・さいたま絹文化研究会 藤井美登利)

*本文・画像の無断転載はご遠慮ください。


参考資料

「第1回宮中養蚕日記」飯島曽野著 飯島康造偏 私家版

「宮中養蚕日記」田島民著 高良留美子編 

「蚕にみる明治維新~渋沢栄一と養蚕教師」 鈴木芳行

*注:飯島本陣は個人宅のため非公開です。

深谷土産は日本酒で!

中山道や利根川舟運で栄えた深谷の風土は、こだわりの蔵元も育てました。

深谷レンガの煙突や歴史的建物も一見の価値があります。

滝沢酒造 

滝沢酒造建物

滝沢酒造

文久3年創業、明治33年に現地にて開業の酒造。20メートルを超す深谷レンガの煙突は中山道深谷宿のシンボルにもなっています。発泡性純米酒など新製品も好評です。

滝澤酒造株式会社  菊泉の蔵元(埼玉県深谷市)(別ウィンドウで開きます)


藤橋三郎商店

藤橋商店

深谷の地酒 東白菊 / 日本酒のオンラインショッピング (別ウィンドウで開きます)


丸山酒造

丸山酒造建物

渋沢栄一の生家近くの明治6年創業の酒造。深谷は冬は青天が多く、乾燥した気候や豊富な地下水脈が酒作りに適しているといいます。昔から酒造りのさかんな場所でした。

丸山酒造 埼玉県深谷市の酒蔵・地酒(金大星正宗・織星) (別ウィンドウで開きます)


七ツ梅酒造跡

七ツ梅酒造

七ツ梅 (七ツ梅酒造跡)へようこそ  埼玉県深谷市  一般社団法人まち遺し深谷 公式ホームページ (別ウィンドウで開きます) 

950坪の敷地に母屋、酒蔵、レンガの煙突などが残ります。

深谷シネマ、古書店、カフェなどがあり、映画のロケ地としても有名です。


 

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企画財政部 北部地域振興センター 本庄事務所  

郵便番号367-0026 埼玉県本庄市朝日町一丁目4番6号 埼玉県本庄地方庁舎1階

ファックス:0495-22-6500

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