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掲載日:2024年12月3日
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大久保山(おおくぼやま)を中心とした浅見丘陵は、オオタカ等が生息する豊かな自然と、北関東を見渡すことのできる眺望に恵まれた場所です。早稲田大学本庄キャンパスやマリーゴールドの丘公園のあるエリアとしても知られ、地域に親しまれています。この丘陵地帯から、数々の古代遺跡が発見されています。
古くは旧石器時代から、人々が活動していた形跡が残されていました。縄文時代には定住する者が現れ、古墳時代には前方後円墳(前山1号墳)が作られました。
その後も大久保山では、平安時代まで継続して人が暮らしていました。ものづくりが盛んだったらしく、175基以上の古墳群や埴輪窯、中世の瓦窯跡に製鉄炉など数多くの遺跡が発見されています。その生産基盤をもとに、鎌倉時代には武士の館や寺院が造られました。やがて、武蔵武士のなかでも最大勢力を誇る児玉党の本拠地となりました。
縄文時代の土器
縄の目の文様が入った器は、集落の女性たちの手によって作られたと考えられます。このときからすでに性別による役割分業があったことが分かります。考古学の視点から、ジェンダーについて考察するというのも興味深いですね。
弥生時代の土器
この時代の土器は、環状にした粘土を積み重ねて作ります。粘土が折り重なる部分は、凹凸ができるので、指でならして整えます。
しかし、こちらの器の上部は、平らにならす工程を行わず、環状の粘土の積み重なりがくっきりと残されています。
デザインとしてあえて残したのでしょうか。模様の数だけ、作り手の思いが込められているのかもしれませんね。
井戸から発掘された器の裏側に、「生」の字が記されています。
奈良や平安の時代、大久保山地域から天皇へ仕える武人が多くいたそうです。
この「生」の字は、「生きて帰ってきてほしい。」と、出征した夫や子を思う家族の気持ちの現われだったのかも…と想像が膨らみます。
「児玉の原点 大久保山―浅見丘陵の人々と生活の歴史―」の展示は、令和5年2月5日(日曜日)まで。ご紹介した以外にも貴重な展示品が数多くあります。実際に足を運んで、先人たちの暮らしに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。展示について詳細は本庄早稲田の杜ミュージアムホームページをご覧ください。
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