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掲載日:2024年7月22日

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児玉郡市ではなぜ、養蚕が発達したのか【その7】 -林さんのシルクエッセイ-

器械製糸の芽生え

 幸運にも昨年度に引き続き『シルクエッセイ』の執筆を仰せつかることができた。もう少し絹と人々の歴史を紡いでいきたい。

 昨年度の最後のエッセイでは、児玉郡市周辺の蚕種屋(たねや)達の活躍を紹介した。幕末から明治初頭、彼らによって養蚕技術が確立され、広く普及したことにより、養蚕が近代的な産業として発展することにつながった。

 彼らによって養蚕が広められたことにより、次第に生産された繭も各地で加工され、生糸として出荷されるようになる。この時期の日本では、牛首(うしくび:写真1)や座繰器(ざぐりき:写真2)という簡易な道具を使い、生糸を作る方法が一般的であった。この方法は、養蚕農家がそれぞれ道具を揃え、自分たちの生産した繭を原料に手作業で行うものである。いわゆる家内制手工業と呼ばれる生産体制であった。しかし、この生産方法では使用される繭の種類や作業者の技量等によって糸の太さや品質にばらつきが生まれるという欠点があった。これでは、これら生糸から質の高い絹織物を生産することは難しく、輸出品としての価値やブランドを大きく損なうことにつながる。事実、欧米で日本産生糸は、「粗悪品」のレッテルが貼られつつあった。

 ちょうどこの頃の欧米では、産業革命が始まってしばらく経ち、特に養蚕が盛んであったフランスやイタリアでは、生糸は「器械製糸(きかいせいし)」によって生産されていた。「器械製糸」とは「繰糸器(そうしき)」と呼ばれる機械を用いて糸を生産する体制のことを指す。繰糸器は、女性の作業員(「女工」)が扱い、繭から糸を取る作業(繰糸)を行った。また繰糸器の動力には、水力や蒸気機関が用いられる。これにより、欧米では均質の生糸を大量に生産することが可能となっていた。

 品質の低下によって生糸の輸出価値が落ちることを危惧した明治政府は、欧米と同様の品質や規格でいかに効率よく生糸の生産をするか模索していった。この時期の我が国は、軍隊や警察、郵便、鉄道など、それまでの日本にはなかった制度や技術を欧米から受け入れることで、少しずつ近代国家として成長を遂げていった。明治人たちは、生糸に対しても同様の向き合い方を選んだ。すなわち、政府が欧米そっくりな製糸工場を作り経営することで、生糸の生産体制そのものを我が国に移入しようと考えたのである。明治3年(1870)のことだった。何とも途方もない発想だが、欧米と同様の品質の生糸を生産するには確かに合理的な考え方ではあった。果たして、この途方もない考えが、後に世界遺産となる官営富岡製糸場のルーツとなったのである。

 

写真1 牛首

牛首

 

写真2 座繰器

座繰器

 

写真3 錦絵に見える糸繰りの様子

(『教草』. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1301485 (参照 2024年7月16日)より)

鍋でいくつもの繭を煮て糸を取った

教草


【参考文献】

佐滝剛弘『日本のシルクロード 富岡製糸場と絹遺産群』中公新書ラクレ 2007年

富岡製糸場世界遺産伝道師会編『富岡製糸場事典』シルクカントリー双書 上毛新聞社 2011年

 

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